記事

06

01

2008

ふと思い立って

by:もりみ [ジャンル:小説]


Fateの桜ノーマルエンド後を描いた小説をアップします。
04年8月の夏コミで発行しました。
地味な話ですが、結構気に入っていたので。


「春花終冬」
 光に満ちた玄関で靴を履いた彼女は、靴箱に立てかけられた杖を見た。
 目的地はそれほど遠くないが、行き先には坂道が多い。彼女は杖の持ち手を握り締めた。
 玄関を出る前に、彼女は改めて自分のいでたちを見下ろした。藤色のカーディガンに足首まである白いスカート。今日は春にしては暑いくらいの陽気だが、夕方からの冷え込みは馬鹿にできない。やはりこのまま出かけることにした。
 玄関に鍵を掛けて外に出ると、彼女は振り返り屋敷を見上げた。こうして屋敷を外から見るのは久しぶりだ。時折手入れをしてくれた人がいたとはいえ、老朽化はごまかしようもない。煤けた白壁の所々にはひびが入り、歯抜けのように瓦が欠けている。
 それでも、わたしが死ぬまでなら保つでしょう。
 そう思うと同時に、彼女の脳裏にこの屋敷を愛していたあの少年の姿がよぎった。やはりこのままにはしておけない。恩師に話をしてみようと考えた。あの人は少年がいなくなった後も、何かにつけて彼女のことを心配してくれた。彼女が相談すればきっとのんびりとした口調で、
「んー、わかったわ。若い衆を行かせるから、遠慮なくこき使ってやって」
 と、さらりと言ってくれるだろう。
 もう十年以上顔を合わせていないが、彼女の思い出の中ではあの人は若々しい二十代の姿のまま、口やかましい弓道部の顧問のままだった。
 思い出が、皺で縁取られたまなじりを緩ませた。彼女は背をまっすぐに伸ばし、確かな足取りで坂を下り始めた。まだ杖は必要ない。
 閑静な住宅街は何も変わらないような佇まいを見せながらも、何十年という時を経てはっきりと変わってきている。
 それでも、彼女は何も変わらなかった。そう思っていた。
 祖父の強要によりマスターとして契約をさせられ、聖杯戦争に駆り出され、あげく聖杯としてアンリマユ――この世、全ての悪――の産みの母となり、罪のない人たちをたくさん殺した。
 弱く臆病で、自分からは何も行動を起こさないくせにいつも姉のことを羨んでいた。彼女は己をそう振り返る。
 だが、そんな彼女を愛した少年がいた。彼女が起こした災害を知ってもなお、道具としてではなく、彼女を一人の女としてきちんと扱った、たった一人の人だった。正義の味方であり続けるという自身の理想を捨てて、彼女と一緒に生きることを選んだ。
 けれど、彼は思い出だけを残していなくなってしまった。
 ひどい話だ。だが、この暖かな記憶だけが彼女を生きながらえさせた。養家の屋敷と土地を売り払い、主であった少年のいなくなったこの屋敷に移り住んだのも、その思いがあったからだ。
 結局、彼女にはどうやって責任を果たして償っていけばいいのかがわからなかった。だから、隠者のように何年も何十年も一人で生きた。
 交差点に出る。ここからいよいよ上り坂だ。彼女は杖をついた。白の地色に、淡く紅が引かれた杖は、愛弟子からの贈り物だった。
 彼女はあの屋敷に向かって杖をつく。彼女の憧れを誘ってやまなかった偉大な姉の待つあの屋敷へ――。
 高校を卒業すると、彼女の姉はすぐにロンドンへ発つことになった。
「一緒に来る?」
 何気ない姉の誘いに、彼女は首を横に振った。魔術教会の総本山に行けるような能力はないと知っていた。 
「いいえ、わたしは行きません」
本来の血筋で魔術師として育てられていたのであれば、架空元素の魔術師として姉と肩を並べる存在であっただろう。だが、他家の養女となって体中に蟲を仕込まれ、魔術回路を捻じ曲げられた彼女には、とても総本山で魔術修行をできるような才はない。そのことは勿論彼女の姉もわかっていたはずだ。
それに、彼女にはこの屋敷を守るという目的があった。
 だから、彼女の姉は「やっぱりね」という顔をして、
「まあ、手紙くらいは書くわ」
 と、あっさりと彼女の同行を諦めた。
やがて、姉が魔術師としてめきめき頭角を現していったことを彼女は時折受け取る手紙で知ることになった。姉さんならそうだろう、と彼女は当然のこととして受け止めていた。かつては妬ましく思っただろうが、華々しく活躍する姉を、もはや羨ましいとは思わなかった。
 代わりというつもりもなかったが、彼女も魔術修行を始めることにした。聖杯として機能していた名残で、莫大な魔力が彼女に貯蔵されていた。あの少年がそうしていたように毎晩土蔵にこもり、初歩の初歩から手探りで始めた。祖父に仕込まれた刻印虫がなくなった今、そのまま魔術師として生きていくことはできない。さりとて、魔術回路は元の血筋からはかけ離れてしまっている。
 最初は、どうしていいのか皆目見当がつかなかった。あの家で十一年間行われてきたことは魔術修行ではなく、拷問でしかなかった。一歩あの地下室に入れば、呼吸するのですら祖父の許可が必要だった。死なぬように狂わぬように、ただそれだけを胸に耐え続けた。
 だが、今は一人になってしまった。師を亡くしたあの少年と同じように。彼女が聖杯として機能し続けていれば、一人にならなくて済んだかもしれない。だが、それは彼女の身の破滅を意味する。だから、これは仕方のない話だった。
 どうしていいかわからないのは、今こうしてここに生きていることと同じだ。だから、耐えられた。あの少年と同じ空気を分かち合いながら、彼女は一人で修行を続けた。
 つらいことはあったが、耐えられないことはなかった。手ごたえはあった。生まれて初めて、自分の意思で生きているように思えた。
 彼女は、ただ一人で生きた。一人で暮らすには広すぎるこの屋敷で。
 月日は巡る。春は何度も訪れる。ただ、年に一つずつ花を育てる。償いの仕方などわからない。ただ自分の為に。つまらぬ感傷かもしれないと思い、うつむき加減になりながら、それでも丹精を込めて育てる。いつのまにか、春先には溢れるほどの花が咲くようになっていた。
 姉からの手紙は間隔が開き始めた。彼女が返事を書かなかったのだから、当然だ。それでも、姉の人生の節目は知ることができた。
 ロンドンで自分の魔術工房を開いたこと。婿を取ったこと。子供ができたこと。そして、孫ができたこと。
 返事を書かなかった理由は、わずらわしかったためではない。事務的に近況を書き連ねているようでいて、遠まわしにだがさりげなく彼女のことを気遣う文面は、十代半ばにして余生を送るようになった彼女の数少ない喜びだった。
 だが、一日千秋のように余生を過ごす彼女には、何を書いていいかわからなかった。書くことがない上に、「つまらないことを書いてよこして」と呆れられるのではないかと思い、結局書きかけの便箋がゴミ箱へ放り込まれるのが常だった。
 ただ一度、姉の結婚を知ったときに、祝いの言葉と共に、
「魔術修行を続けています」
 と書き送った以外は。
 それについて、姉からは何も反応はなかった。ただ、時折思い出したように簡素な近況報告が舞い込んでくるだけだった。
 ロンドン留学以降、こちらの家に姉が戻ってきたことはなかった。いや、戻ってきたことはあるのかもしれないが、彼女は知らなかった。つい二ヶ月ほど前、電話が鳴るまでは。
 
 二月も残すところ数日になっていた。電話が鳴ったのは、居間で夕食後の茶を飲んでいたときのことだった。静かすぎる屋敷に、その音は驚くほど響いた。最初は侵入者避けの警報が鳴ったのかと思った。電話の音とわかってからも、間違い電話だと思った。
 しかし、電話は鳴り止まない。仕方なく、彼女は腰を上げ受話器を取った。
「はい」
『……久しぶりね』 
 年齢相応の落ち着きを示しながら、それでも凛と冴え渡る響きは変わらない女性の声。受話器を握る彼女の体が硬直した。
「……姉さん」
 呟きに表れる戸惑いを隠すことなど思いもよらず、けれど彼女の口元は自然に緩んでいった。
 それでも、緊張はまだ解けない。
「お久しぶりです」
 折り目正しい答えで姉に応える。
『とりあえず生きてるようで何よりね』
 常々冷静さを身上にしていた――というより、身上にしたがっていた彼女の姉らしい返事だった。
「ええ、姉さんもお元気そうで何よりです」
『まあね。で、本題なんだけど、わたし冬木市に帰ってきたのよ』
「えっ、いつですか?」
『今日』
 また唐突な話だ。だが、それもまた姉らしい。余りに久しぶりのためか、どんな言葉を聞いても彼女は熱いほどに姉という存在を感じる。
「連絡をもらえれば、何かお手伝いできましたのに」
『いいわよ。わたしもまだ耄碌してないし、娘夫婦も手伝ってくれたしね』
 「娘夫婦」――その言葉に、最近忘れかけていた年月の流れを思い出した。年月は確実に彼女の上を通り過ぎていた。
『で、わたしの孫の話なんだけど』
「女の子ですよね。今年あたりから中学生でしたっけ?」
『そうよ。よく覚えていたわね』
 姉さんのことですから。とは言えなかった。
『このまま向こうで育ててもよかったんだけど、わたしもいい歳だしね、そろそろこっちの家が懐かしくなってきたのよ。で、こっちに戻ってきたわけ。ちょっと遅れるけど孫も中学入学だしね』
「そうですか」
 もう少し気の利いた受け答えはできないものかと彼女が唇を噛んだ。
『で、貴女、うちの孫の師匠になる気はない?』
「は?」
 思わず間の抜けた声が出てしまった。「師匠」という言葉が何を意味しているのか、彼女にはわかりかねた。いや、わかったが受け入れることを拒絶していた。
「わたしに魔術を教えろとおっしゃるんですか」
『そうよ』
 他に何があるのかと言わんばかりの言い方だった。
「無茶なことをおっしゃらないでください。わたしの魔術は独学ですよ。それを姉さんの後継者に教えられるわけないじゃないですか。姉さんが教えたほうがいいに決まってます。いえ、むしろ姉さんが教えるべきじゃないですか」
 彼女がこんなふうに語気を荒くして喋ったのは、いつ以来だろうか。
『わたしもそう思うわ。でもね、アイツとわたしは相性が悪いの』
 苦虫を噛み潰したような、それでいて心底困ったような姉の声に、思わず彼女は笑ってしまった。声が出ないように、慌てて口元を押さえる。ああ、こんなふうに彼女が笑ったのは――。
『アイツも、筋は悪くないと思う。貴女だったら、うまく扱えるはずよ』
「性格の問題、ですか?」
『要は相性よね。性格が似てるってのも問題だわ。アイツ、わたしのことを「強欲ばーさん」なんて抜かすし』
 不満げな姉の呟きに、彼女はまた笑いそうになった。そして、この姉を「強欲ばーさん」などと呼べる娘に、少し興味を抱いた。何のかんの言っても、きっと姉はその孫を可愛がっているのだろう。
『基本的なところは仕込んであるし系統ははっきりしているから、あとは力を伸ばす手伝いをしてくれればいいわ』
「わかりました。できる限りのことはやってみます」
『そう。よろしく頼むわ』
 彼女は姉の申し出を引き受けた。姉がそう言うのなら、きっとできるのだろう。受身がちな性格と世捨て人だからこそ持つ軽さが、彼女をある意味で無責任にしていたかも知れない。
「姉さん」
 だが、根本的な疑問が彼女の口を突いた。
「どうして、わたしがまだ魔術修行を続けていると思ったんですか」
 たった一度の手紙に書き添えただけのことを、姉は覚えていたのか。そして、それを今でも続けていると信じていたのか。
『当たり前じゃない』
 少しだけ沈んだ声で、彼女の姉が続けた。
『その家にいる限り、貴女が魔術修行を忘れたり――アイツのことを忘れられるわけ、ないじゃない』
 うつむく彼女の手が、受話器をきつく握り締めた。
 彼女の姉にはわかっていたのだろう。何のために彼女が魔術修行を続けるのか、どうしてこの家にいるのか。帰らぬ少年を心のどこかで待ち続け、ついに老女になってしまったことを。
「……そうですね」
 何と答えてよいのかわからないのか、ただ彼女は当たり障りのない言葉を返していた。
『早速明日行かせるから、よろしくね』
「はい、わかりました」
 受話器を置いた彼女が、天井を見上げた。まるで、そこに何かの答えが書いてあるかのように、一途に凝視する。
 だがすぐに我に返り、電話器に背を向けた。その背中は、心なしか彼女を小さく見せていた。
 翌日玄関のチャイムが鳴ったときは、昨夜に電話が鳴ったときのような驚きはなかった。その代わり、いくばくかの緊張をもって、彼女は玄関に向かった。
 ここ数年来感じたことのない胸の高鳴りを覚えながら、彼女は格子戸を開けた。
 そこには、陽光の下、彼女を見上げる少女がいた。
 ああ、と漏れ出そうになる溜め息をかろうじて押さえ込む。彼女の目が細くなったのは、玄関に差し込む日光がまぶしかったからではない。少女は美しかった。そして、艶のある黒髪を二つ分けに結い上げ、全身から溢れ出る生命力を力強い瞳に宿したその少女は、まさに彼女の姉そのものだった。
 それでも緊張しているらしく、口元は硬く閉ざされたままだった。無理もない。偏屈どころか弟子を弟子とも思わない師匠がごろごろしている世界だ。
「初めまして。今日からわたしがあなたを教えます。よろしくね」
 そんな少女を微笑ましく思ったのか、彼女は少女に向かって静かに声をかけた。白い息が柔らかく宙に浮かんで消えた。
 その言葉に緊張がほぐれたのだろう。少女はぱっと表情を明るくすると、
「よろしくおねがいしますっ」
 彼女に向かって深々と頭を下げた。二つ分けの髪が、大きく揺れた。
 実際に修行を始めてみると、なぜ姉の手に負えないのか、なぜ姉が彼女に委ねたのかが、よくわかった。
 少女自身は姉譲りの気の強さがあると同時に、姉によく似たいい子だった。だが、少女の中にある魔術回路は、恐ろしくこんがらがっていた。天性素直な魔術回路を磨き続けてきた姉には、理解するのも難しいだろう。
 だが、彼女にとってはそう難しいことではなかった。彼女自身が相容れない二つの魔術回路に翻弄され続けているからだ。根気よく、様々な角度からほぐしていくのが肝心だということを、彼女は身をもって知っていた。
もつれた糸をほどいていくと共に、少女は彼女に対していろいろ話をするようになってきた。
 ロンドンでの住まいについて、学校について、友達について、魔術について、両親について──そして、彼女の姉・祖母について。
「あんな強欲ばーさんなのに、魔術師としては超一流なんですよ。なんか、くやしいです」
 唇を尖らせながら出てきたその言葉には、彼女の姉に対する尊敬と同時に引け目も感じられ、彼女の心に穏やかな共感を生んだ。
 それでも、彼女は少女が持つ類い稀な才能が、まぎれもなく彼女の姉から引き継がれたものだと知っていた。いずれは、この少女も立派な後継者になるだろう。
「でも、あれは日々の鍛錬のおかげですものね。すばらしいと思いますよ」
 心からそう思い、彼女は微笑んだ。笑み皺が、逆に彼女を若く見せた。
「あ、笑った。わたし、先生の笑顔好きだな。うちの強欲ばーさんと違って、すごい美人なんだもの」
 嬉しげに頷く少女の言葉に、彼女はまた微笑んだ。
 そんなとりとめもない話を、陽射しが暖かくなり始めた庭先で揺り椅子に座りながら聞くのが日課になりつつあった。
「先生のお話も聞かせてくださいよ」
 縁側に腰掛け足をぶらつかせながらせがむ少女に、彼女も少しずつ過去の話をするようになってきた。
 口にできる過去は多くはない。ただ丹念に、あの少年と過ごした数年間について話し始めた。その中には、彼女の姉の話も出てきた。
「あれ、先生とばーさんって、お友達だったんですか?」
 間柄を訊かれ、彼女は返答に詰まった。血のつながった実の姉妹とはいえ、何十年も前に家の縁は切れている。姉はどう言っているのだろう。
「わたしとあなたのお祖母様とは、一人の男の子を取り合ったライバルだったんですよ」
「ええっ?」
 だから、返答を避けた。年頃の女の子が興味を持ちやすい話題に、少女も瞳を輝かせてしっかり食いついてきた。
「えー、どんな人だったんですか?」
「とても強くて、素敵な男の子でしたよ」
 遠くを見つめる彼女の面差しが、一瞬十代の少女のものに戻った。
 そう、彼は誰よりも強かった。だから、聖杯戦争でも最後まで勝ち残った。だが――。
「あの、先生。その人は、どうなったんですか?」
 少女が不安げな面差しで彼女を見上げてきた。勘の鋭い子だ。彼女は少女の眼差しをくるみ込むように応えた。
「死んでしまいました。わたしと、あなたのお祖母様を残してね」
 言葉にすれば、こんなに簡単なこと。
今では、彼女が思い出せることはもう言葉しか残っていない。
“このゴタゴタが終わったら、どこか遠くに行こう。今までどこかに遊びに行くとかなかったからな。たまには遠出して騒ぐのもいい”
 果たされなかった約束だけが、彼女の中で埃をかぶっていた。
 目の前の少女が、二つ分けの髪を垂らして首をうなだれている。表情は見えないが、膝の上の手のひらが硬く握られていた。
「そんな風に気にしなくていいんですよ。もう随分昔の話ですし。だいたい、わたしから話したんですから」
 それでも少女はうつむいたままだ。単なる言葉以上のものを彼女から受け取ったのだろう。
 つらくないと言えば嘘になる。だが、彼女の人生も終わりに近づき、こんな出会いもあったのだ。人気もなく冷え切った部屋に不意に持ち込まれた、小さな蝋燭の灯火。
 彼女はゆっくりと立ち上がり、縁側の少女に向かって歩き出した。隣に座ると、そっと少女の頭を撫でた。
「ありがとう」
 少女の師匠としてではなく、彼女は彼女として囁いた。そんな囁きが漏れたことに、彼女自身が驚いた。
 その囁きに何かを感じ取ったのだろうか。
「先生」
 ただそう呟くと少女はそっと彼女の胸に頭をもたれさせた。
 少女が彼女に贈り物を持ってきたのは、それから間もなくのことだった。包装紙を解くと、白の地色に淡く紅が引かれた細い杖が現れた。
「よかったら使ってください」
 最初は恐縮して辞退した彼女だったが、彼女の胸に押し付けんばかりの少女の押しに、ついに受け取ることになった。
「ありがとう」
 L字型に折れ曲がった持ち手部分を握ると、手のひらにしっくり馴染んだ。細く軽いが、地面に突いてみると確かな存在感で体重を支えてくれる。
 こんな風に誰かから何かを贈られるのは、何十年ぶりだろう。感慨が、彼女の涙腺を緩ませかけた。が、開ききることはなかった。
 それに、彼女はあまり外出をしなかった。杖が必要になるような遠出ならなおさらだ。せっかくの贈り物だが、使い道がなさそうだった。
「で、今度の日曜に、ウチに遊びに来ませんか? ばーさんからの誘いなんですけど」
「え?」
 贈り物の意図はそこにあったのだろう。
 他家の養女となってからは結局一度も行くことがなかったあの家。こだわりがなかったと言えば嘘になる。だが、もう遠い過去の話だ。
「ええ、行かせてもらいますね」
「やったあ。わたし、クッキー焼いて待ってますから。ばーさんも先生が来てくれたら喜びますよ」
 姉さんが、わたしが来ることを喜んでくれる。
 不思議な感覚だった。その感覚を表現する術をもたず、彼女はただ嬉しそうに笑う少女に微笑み返した。
 そして今、少女から受け取った杖を片手に、彼女は坂を登っていた。
 行く道には、桜の花びらがひらひらと舞っている。彼女は頭上にある樹を見上げることなく、花びらを踏みしめていく。桜の花は、あの少年と一緒に生きていくことができなかったことを思い出させる。
 小高い丘を登りつめ、ようやく目的地にたどり着いた。
 松やモミの樹に囲まれた優美な洋館は、落ち着いた茶色を基調としてどっしりとした歴史を感じさせる。
 額ににじむ汗を指先でぬぐい、少し乱れた呼吸を整える。藤色のカーディガンを脱ぎ、開かれた鉄門をくぐり抜けた。一瞬肌に違和感があったが、害はなかった。結界が彼女を認識して受け入れたのだろう。
 扉の呼び鈴を押すと涼やかな音が響き、程なく扉が開いた。
「いらっしゃいませ、先生」
 薄い桜色のワンピースをまとった少女が、優雅に礼をした。その姿、その所作は美しかった。この家で、少女は生き生きと暮らしているのだろう。
「お邪魔させてもらいますよ」
 玄関脇に杖を立てかけ、彼女は靴を脱ぎ始めた。
「この杖のおかげで、ここまで楽に来られましたよ。ありがとう」
「ああ、そうですか」
 少女の瞳が、不意にいたずらっぽく瞬いた。そういう顔をすると、本当に彼女の姉に似ている。
「これ口止めされてたんですけど、実はその杖、ばーさんからの贈り物なんです。先生が少し足を悪くしてるってわたしが言ったから」
 少女が彼女の耳元で囁いた。
「ああ……」
 彼女はそのことに気づいていなかった。というより、姉からの贈り物という可能性をまったく考えていなかった。普通、中学生の少女に杖を贈るなどという発想も財力もあるはずがなかった。
「内緒にしておいてくださいね。バレたら怒られちゃいますから」
「もう気づいているかも知れませんよ」
 秘密を共有した友達のように微笑む少女に、彼女は師匠として釘を刺した。
「優秀な魔術師にとって、自分の根城で何が起きているかを把握するなんて基本中の基本ですからね」
「げっ」
 少女の笑みが凍りついた。
「お祖母様がどう思われているかはわかりませんけど、わたしは気にしませんけどね」
 姉に聞こえるようにはっきりと言うと、彼女はもう一度杖の持ち手を握り締めた。
「う~」
 呻き声を上げながらも、少女は手早くスリッパを出し、彼女のカーディガンを受け取った。
「どうぞ、こちらへ」
 少女は「いやだなあ」などと呟きながら、それでも彼女を先導して歩き始めた。
 廊下を歩き階段を上り、少女はある扉の前で立ち止まった。扉を叩くと、中から怒声が返ってきた。
「聞こえてたに決まってるでしょ!」
 電話口で聞いた声より、若々しい声だった。
「うわ」
 それでも、少女は扉を開けて中に入った。
「ばーさん、先生連れてきたよー」
「連れてきたよ、じゃないっ」
 前に立っていた少女が攻撃の矛先をかわそうとするかのように、脇に動いた。
 彼女の視界に、一人の老女の姿が飛び込んできた。髪を結い上げ濃紅のドレスを身にまとい、目を怒らせて立つ老女は紛れもなく――。
「お久しぶりです」
「よく来てくれたわね」
 眼鏡の奥から覗く眼差しが、一瞬彼女を射抜くような光を放った。彼女とは違い、常に第一線で生きてきた歴史が伝わってきた。そのまばゆさに、彼女の目も一瞬眩んだ。
 目元や口元に濃い皺が刻まれても、彼女の姉は彼女の姉のままだった。むしろ、その皺が押しも押されもせぬ大魔術師――魔法使いという高みに手が届くような――の威厳を醸し出していた。
 だが、同時に彼女は少女がなぜ姉を「強欲ばーさん」と呼んでいるのかもわかり、心中密かに微笑んだ。魔術用の宝石を収集しているためだけではない。姉の威厳や存在感の強さは、裏返せば絵本に出てくるような「悪い魔法使い」を連想させる。十代の頃の「小悪魔ぶり」に拍車がかかったのだろう。
「まったく、口が軽いんだから」
「いいじゃない、減るものじゃないし」
 頬を紅潮させて、彼女の姉が少女を責めた。その声色は大魔術師のものではなく、孫に甘い祖母のものだった。
「まあ、そんなに怒るようなことでもないでしょう」
「そりゃまあ、そうだけどね。アンタがいいんだったら、わたしだって別にいいけど」
 彼女のとりなしに、姉は独り言のような呟きを残して攻撃をやめた。
 彼女はそのまま落ち着いた足取りで奥へ進んだ。背後で扉の閉まり、少女が退出した。
「こちらに、どうぞ。今紅茶を淹れるわ」
 合理的な感情の切り替えは、彼女の姉の特徴だ。
「ありがとう、姉さん」
 彼女は姉が指し示した華奢な装飾の施された椅子に座り、礼儀正しく両手を膝の上に置いた。彼女の姉は優美な仕草でポットを扱い、明るい赤茶色の液体を彼女の手元のカップに注いだ。立ち上る湯気の匂いだけで、この紅茶が最高級品であることがわかる。たぶん、イギリスの逸品だろう。
 この部屋は接客用の部屋だろう。天井には過度に華美になり過ぎない程度のシャンデリア、足元には深緑の絨毯。部屋そのものはそれほど広くはないが、調度品が少ないため、随分広く感じる。大き目の窓からは採光がふんだんに行われ、窓の向こうには空と樹が見える。
 彼女の姉が自分の分も淹れ終わると、彼女に視線を戻した。
「どうぞ」
「いただきます」
 砂糖もレモンも使わずに、彼女はカップに唇を寄せた。
 一口飲むと、芳香と紅茶独特のまろやかな苦味が口内に満ちた。心地よい。思わず吐息を漏らした。
「とても、おいしいです」
「まあ、そりゃ当然よね。わたしが淹れたんだから」
 一見高飛車とも思える答えだが、口元には満足げな微笑みが浮かんでいた。
 お茶なら普段から彼女ひとりでも淹れていたが、誰かに淹れてもらうお茶がこんなにおいしいとは思わなかった。
 そのことに気づいているのかいないのか、彼女の姉は彼女の舌が動きやすい話題を持ち出してきた。
「あの子の修行ぶりは、どう?」
「おおむね順調です。姉さんの基本開発もよかったのでしょう。魔術回路のコントロールもだいたいできるようになってきましたから。ただ、いくつか問題点もあって――」
 弟子と後継者について、魔術師同士の活発な議論が始まった。彼女の姉は飲み込みが早く、彼女が提案した改善案のさらに上を示したりもした。知的探究心が大いにそそられる話題ではあったが、そもそも彼女の弟子には大きな問題点があるわけではない。大器であることについては、彼女も彼女の姉も意見が一致しており、
「なるほどね。貴女に預けてやっぱり正解だったわ」
という彼女の姉の発言をもって、この話題は終わりとなった。
 しばし無言で、二人は紅茶をすすった。
「桜」
 かたんと音を立てて、彼女の姉がカップを置いた。
「今、幸せ?」
 冷静さで包みながらも、どこか切羽詰ったような響きを持つ問に対して、彼女は答えがなかった。
 不幸だとは思わない。不幸ぶったことが、すべての元凶だったのだと彼女は知っている。だが、今幸せかどうかなどわからない。
「愚問だったわね」
 彼女が何かを言うより先に、口調の鋭さとは裏腹に彼女の姉は謝罪するような眼差しで彼女を見やった。
 空気が重くなった。彼女には、姉が何を求めているのかわからなかった。彼女の姉が実は肝心なところでひどく不器用な人間であることも、まばゆいばかりの才能の光に惑わされて見えなくなっているようだ。
 その空気の壁を突き抜けて、少女が飛び込んできた。
「お邪魔しまーす。クッキーが焼けましたので、どうぞ」
 少女が編み籠をテーブルの上に置いた。中には、さまざまな形をしたクッキーが盛られていた。
「ありがとう、いただきます」
「ちょっと、砂糖多すぎるんじゃないの?」
 彼女が手を出すより先に、彼女の姉がすでに寸評を始めていた。さっきの仕返しのつもりかもしれない。
「そう?」
 少女が立ったままクッキーを摘んだ。
「そんなことないよ。これでいいじゃない」
「甘すぎよ」
「ばーさんは歳だから、そう思うだけよ。ねー、おいしいですよね先生?」
「歳で言ったら桜だってわたしと一歳しか違わないんだから。甘すぎるわよね桜?」
 口の中のクッキーが喉に詰まりそうな、思わぬ両面攻撃に彼女がたじろいだ。だが、微笑みながら答えた。
「えーと、おいしいですよ、とても。甘さは好みですから」
「ほーら、やっぱり」
 鼻高々の少女に対して、姉は口を尖らせた。
「まったく、いつまでたっても優等生なんだから、桜は」
「ほんと、ばーさんの妹とは思えませんよね」
「え?」
 少女の言葉に、彼女のまなじりが持ち上がった。それはこの前彼女がお茶を濁した話のはずだ。姉を見ると、今思い出したと言わんばかりに彼女を睨みつけていた。
「そうよ、貴女、質問されたときにちゃんと答えなかったんですって? わたしのことを『姉さん』と呼ぶくせに、どういうつもりなのかしら?」
 怒気を含んだ語気の鋭さに、少女が表情を曇らせた。こんなことになるとは思っていなかったのだろう。
 ああ、そうだ。本当に縁が切れているのであれば、この姉が「姉さん」などと呼び続けることを許すはずがない。電話で久しぶりに話したときも、今日会ったときも、彼女はずっと「姉さん」と呼び続けていたのだから。
「ごめんなさい、姉さん」
 そう言うしかなかった。心から、そう思った。もしかしたら、そのことで姉は傷ついてすらいたかも知れないとも思った。だから姉の目を見て、できるだけ心を込めて伝えた。
「ごめんなさい」
「いいわよ、もう」
 まだ若干怒気は残っているが、それでも何かは伝わったのだろう。彼女から視線を外し、姉が窓の外を見た。
「庭に出ましょうか。せっかくいい天気だし」
 姉の誘いに、反対する理由はない。申し訳なさそうに見送る少女に微笑みを投げ、彼女は姉と連れ立って部屋を出た。
 階段を下り廊下を抜け、外へ出た。屋敷の壁沿いを歩いていく。カーディガンがなくても暖かい。だが、彼女の心の揺れは収まっていなかった。
「ずっと昔、貴女が魔術修行を続けていると知ったとき、とても複雑な気分だったわ」
 前を歩く姉が、振り向かずに独り言のように呟いた。
「同じ道にいることは嬉しかった。でも、同時に哀れさも感じたわ。ウチと間桐の因果と――アイツのことを引きずり続けているように思えて」
 その指摘はまったく正しいだろう。
「ええ、そのとおりです」
 彼女もそれを認めた。
「でも、わたしが一人でも生きていけるようになるには、それが必要だったんです」
 なりたくて一人になったわけではない。
 させたくて一人にさせたわけでもない。
 他の選択肢はなかったのだ。こうして、彼女は彼女なりのやり方で罪を償い続けることしかできなかった。
「今も、一人なの?」
 振り返り、姉が静かに問うた。屋敷の静謐さが深まった。
 ほんの数ヶ月前なら、彼女はためらわず「はい」と答えただろう。
 だが、彼女の中であの少女が笑っていた。そして、その奥ではひっそりと姉が息づいていた。その二人がそう答えさせるのをとどめ、彼女をひどくうろたえさせた。頬に手を押し当てる様は、まるで動揺が漏れ出るのを押さえようとしているかのようだった。
「貴女はずっと一人で生きていこうとしていたから、貴女がそれでいいならいいとわたしも思っていたんだけどね。わたしも若かったから」
 姉は再び彼女に背を向けて歩き始めた。
「一人でも大丈夫だろうって思ってた。わたし自身も一人で大丈夫だって思ってたし。でも、そういうものじゃないのよね。歳を取ったってことなのかしらね」
 結い上げられた髪は、銀髪。彼女と同じように。
「わたしが、貴女に一緒にいてほしいと思うなんて」
 小さな呟き。だが、彼女が受けた衝撃はとてつもなく大きかった。
 彼女には信じられなかった。この姉が、この大魔術師が、こんな出来損ないの妹のことを――。
「勝手な話よね。今までこれだけ放っておいて。貴女が手紙の返事をくれないから、腹を立てて諦めようとしたこともあるんだけど」
 ぶっきらぼうな語りに、恥じらいが混じっている。
「でも、ダメみたい」
 少女のように幼く、素直な呟きだった。
「あの子から、さりげなく貴女のことを聞き出したり」
 そして、ようやく彼女も思い出した。この姉が、情が強いにもかかわらず、ひどく不器用な人間であることを。
「姉さ――」
「ええ、これはわたしの感傷よ」
 きっぱりと言い切り、彼女の姉が足を止めた。
「で、これがわたしの感傷の集大成よ」
 そして、上を見上げた。釣られて彼女も顔を上げた。
「あ――!」
 声が、出た。
 驚きという言葉では、まだ足りない。姉の姿だけを見て歩いていたから、気づかなかった。
 ずっと避けていたこと。ずっと気づかなかったこと。
 あの少年がいなくなってから。サーヴァントがいなくなってから。姉がロンドンへ行ってから、ずっと気づきたくなかったこと。
 見上げた空には、薄桃色のヴェール。彼女と同じ名前の樹。ゆっくりと、微風に乗って花びらが舞い落ちてきた。その花びらが彼女の頬をかすめ――。
「……うっ、くっ……」
 涙を誘った。
 淋しかった。ただ淋しかった。もうずっと。
 涙が溢れて止まらないが、彼女は目を閉じようとはしなかった。この瞬間を焼き付けようとするように、彼女は頬から顎へ雫を落とした。薄桃色の影が滲んでは広がる。
 その様を、彼女の姉が見守る。見守っていてくれる。
「ふっ、うっ……」
 嗚咽が彼女の喉を鳴らした。
 彼女は、この場所にいることを許された。少女と姉と、そして自分に。
 その安堵が彼女の涙腺を激しく揺さぶった。
 不意に、心の中で一筋の糸が切れた。
 今までその存在に気づきもしなかった何かの糸。喪失感と同時に、温もりだけが彼女の中に残った。
 その喪失感を、姉に抱きつくことで耐える。照れたように横顔を見せる姉は、それでも彼女の身体をしっかりと抱きとめた。
「ありがとう」
 姉の肩に頬を預け、理由もわからないまま、彼女はそう呟いた。
 足元をすり抜ける微風が、花びらを舞い上がらせた。
 
 春の花が、冬の終わりを告げた。
 
 彼女が、泣いている。何十年ぶりの涙を流している。
 よかった。本当によかった。
 聖杯としての機能を失っても、彼女は莫大な魔力を貯蔵していた。その魔力が、本来消え去るはずの私をかろうじてこの世界にとどめていた。私が魔力吸収に優れたサーヴァントであったことも作用したのだろう。 
 けれど、実体にはなれない。彼女に自分の存在を気づかせることもできない。そんなことをしたら、彼女自身が崩壊してしまう。
 ただ、今にも切れそうな細い糸が、彼女と私をつなぎ続けていた。
彼女が泣くこともなくひっそりと心を沈ませていく様を知りながら、私には何もできなかった。名前を呼びかけても聞こえない。だからもう、呼びかけることもしなくなった。いっそ消えてしまいたかった。 
 この何十年、そうやって過ごしてきた。
 もう、私が望むことなど何もなくなっていた。もうすぐ彼女と私をつなぐ糸が切れそうだと気づいても、その瞬間まで虚空に存在し続けることしかできないのだから。
 そんなところに、彼女の姉が戻ってきた。
 彼女のことを思いながら、どう接していいかわからない様が、ひどくもどかしかった。そんなふうに彼女の身の回りに関心をもったのは、久しぶりだった。
 そんな二人を橋渡しするかのように、少女がやってきた。
 この少女が、ひっそりと彼女の中に明かりを点けてくれた。
「先生」
 その素直な呼びかけが、彼女に響いた。彼女が少女の思いを受け止め、その身体を抱きとめる。まだ消えたくない、そう思ったのは初めてだった。
 彼女と彼女の姉の間に流れる、ぎこちなくもどこか親密な空気が、私の心を和ませた。
 そして、私も彼女を通して、中庭で大きく枝葉を広げた春の花を見た。
 そうか。もうずっと前から、彼女はここにいたのだ。だから、和んだのだ。
 遠坂の家に、桜が咲いた。
 ああ、これでもう私には思い残すことは何もない。
 サクラ。
 それが彼女の名前。
 聞こえないと知っていても、最後の思いを伝える。
 ああ、サクラ。
 どうか、どうか息災で――。


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投稿されたコメント

  • By : あまの [ 2008-01-06 日曜日 20:28:46 ]

    久しぶりに読むと新鮮でいいわぁ~。
    Fate本作りたくなっちゃいましたよ。
    桜じゃなくイリヤでだけど(笑)

  • By : もりみ [ 2008-01-06 日曜日 20:58:43 ]

    あんがとね。わたしも久しぶりに読んでいいなと思ったのでアップしました。
    Fateジャンルではまったく活動してなかったので、こういう場で1人でもFate好きの人に読んでもらえたらいいな。

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