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05

2009

ONEの茜の小説

by:もりみ [ジャンル:小説]


過去の同人小説サルベージ第3弾。
「ONE」の茜と浩平の話です。
03年5月に発行した「ONE」「Kanon」短編小説の総集編で書き下ろしました。


さよならを未来にあずけて
 木陰でも、地面から伝わる熱気は留まるところを知らない。それでも、浩平はベンチからじわじわと伝わってくる熱さには慣れてきた。
 見上げると、青く折り重なる木の葉の隙間を縫って、傾きかけた日光が浩平の瞼を薄く照らした。
 額から頬に流れ落ちる汗を手の甲で拭うと、浩平はペットボトルのお茶を口に含んだ。口の中でゆすいでから飲み込む。それでも、口と鼻を小刻みに引っ掻くような甘い甘い感覚は抜けない。
 左を向くと、茜が浩平の食べ残したワッフルを細かく千切って、足元に落としていた。そのワッフルの切れ端を数羽の鳩がつついている。
 相変わらず一見無表情な茜の横顔だが、口元はかすかに緩み、ゆったりとこの空気を楽しんでいる様子が伝わってきた。
 心からよかったと思う。こうして茜と一緒にいられることは、何よりも嬉しい。だが、浩平はそれでも言わずにはいられなかった。
「なあ、茜」
「はい」
 ワッフルを千切る手を休めずに、茜が浩平を見た。
「鳩にそのワッフルをやるのは、やめたほうがいいと思うぞ」
「どうしてですか?」
「鳩が、糖尿病になる」
 口元を小さく不満げに尖らせて、それでも茜はワッフルを千切るのをやめた。
「そんなこと、ないと思います」
「いや、このワッフルならありうる」
 浩平が1個目はかろうじて食べきったものの、2個目を半分で放棄したこのワッフルは、山葉堂謹製・砂糖と練乳と蜂蜜たっぷりの激甘ワッフルだ。去年の冬に巨大隕石のごとくお目見えしたこの問題作は、どういうわけかまだメニューに残っている。浩平はこの問題作を買う人間を茜以外には知らない。
 茜がお気に入りなのは構わないが、それを浩平にも薦めてくるのは閉口する。それでも、1個は何とか食べられるが、2個目以降は必ず涙を飲む羽目に陥る。だったら1個目でやめておけばいいものを、茜の「おいしいですから」の一言にいつも負けて口にしてしまう。その繰り返しだった。
「とにかく、それは動物虐待だからやめておけ」
 何かを言いかけて一度口を閉じると、茜は呟いた。
「だったら、私が食べます」
「それなら、まあ、いいか」
 茜については、浩平はもう諦めている。茜は小さく噛みつくと、一口ずつ順調にワッフルを食べ始めた。見ていたらまた口の中に変な唾液が滲んできそうになったので、浩平は目の前の景色に目を移した。
 目の前の石畳の灰色が濃くなってきた。照りつける日の光が、少し弱まってきたようだ。さっきはあまりの暑さにこの木陰のベンチに緊急避難したが、これで何とか散歩を再開できそうだ。
 茜が満足したように溜め息をひとつついた。ワッフルが入っていた紙袋を隣のゴミ箱に入れる。足元にいた鳩も千切れたワッフルを残したままいなくなっていた。
「そろそろ、行くか。日差しもちょっと弱くなってきたから、さっきほどじゃねえだろ」
 立ち上がると、相変わらずジーンズが汗で肌に張りついているのが少し気になったが、これは夏の風物詩だ。Tシャツの首元をつかんで空気を送り込むと、少しだけ涼しくなったような気がする。振り向くと、茜は両手をベンチについたまま、浩平を見上げていた。
 知りあった頃からずっと変わらない長い長い三つ編み。涼しげな顔をしていてもやはり暑いのか、髪の毛が一筋二筋うなじに汗で張りついている。
 今日の茜は、肩口と裾に少しフリルのついた白のサマードレスを着ている。ところどころ白地に流れる薄い青が、夏らしいデザインだ。浩平がこの服を見るのは初めてだった。今気がついた。ついでに言うなら、サンダルも未見だ。
 今さらながら浩平がしげしげと観察していると、茜が手のひらを向けて右手を差し出してきた。
「金なら小銭しかないぞ。今月は貧乏でな」
「違います」
 茜が眉根を寄せた。
「こんなとき、普通は手を取ってくれるものです」
 なるほど、と浩平は頭の中で頷いた。確かに、こういう格好ならそれも似合うかもしれない。浩平はTシャツにジーンズ、スニーカーだが。
「そうだな」
 浩平は左手を伸ばして茜の手を握った。
「あっ」
 手のひら全体を握るのではなく、茜の指に指を滑り込ませて。その手を引っ張って、茜を立たせた。指を深く沈めて、茜の柔らかな手を絡め取る。
「は、恥ずかしいです」
 指を外そうとするのを押さえて、浩平は歩き出した。
「何言ってるんだ。手を取れって言ったのは茜のほうだろ」
「そうですけど違います。握り方が違うんです」
「別にいいだろ。恋人同士なんだから。それでも、そんなに嫌なのか?」
 浩平とは反対のほうを向いて、顔を見せないようにしながら茜が呟いた。
「嫌……ではないです」
 こういうとき、浩平は「こちらの世界」に帰ってこられて心底よかったと思う。浩平のことを忘れずに思い続けてくれた茜がいたからこそ、浩平は帰ってくることができた。だから、茜にはもちろん感謝している。
 だが、それ以上に浩平が感謝していること。それは。
「はあっ……」
 感極まった溜め息とともに、浩平は背中に右腕を回して茜を引き寄せた。
「浩平っ」
 顔を上げようとする茜の頭を左手で押さえ込む。
 今、こうして茜と一緒にいられること、茜を抱き締める両腕があることに、感謝せずにはいられない。
「もう、だめですよ」
 こうして、自分をたしなめる茜の顔を見ることもできる。
「他の人もたくさんいるのに……」
 暑い中、それでも犬を散歩させている子どもやジョギングしている老人に見られても構わない。
「じゃあ、誰もいなければいいんだな」
「……嫌です」
 頬を赤く染める茜を、心底愛しいと思う。
 不意に、浩平の頭に生温かい雫が当たった。
「ん?」
 見上げると、空一面の曇天から雨が降り始めた。浩平の口元がきつく締められた。
 雨は、嫌いだ。
 浩平があの空き地で、消えた幼馴染を待ち続ける少女と初めて出会ったのも、彼女を置いて「こちらの世界」から消えたのも、雨の日だった。
 浩平を拒絶する茜の後姿。それはもう、あの冬の日に置いてきたはずだ。
「どこかで雨宿りするぞ」
 そう言って、浩平は歩き出した。雨足は激しくなり始めている。周りにいた人たちもすでに散っていた。
 ついてくる茜の気配を感じない。浩平は振り向いた。
 茜は浩平に背中を向けて、石畳に佇んでいた。初めて出会ったときのように。
「……茜?」
 恐怖に背中を押されるようにして、浩平は駆け出した。
 茜の前に回りこむ。恐る恐る顔を覗き込むと、浩平を見上げる茜の目は、浩平が知っている茜の目をしていた。安堵の溜め息をつくより先に、茜が右腕を上げて浩平の向こうを指差した。
「あそこに、行きましょう」
 茜が指差したのは、小さな噴水だった。ついさっきまでは小学生たちが中に入って遊んでいたが、今はもう誰もいない。
 浩平の返事を待つまでもなく、茜が歩き出した。浩平もその隣を歩く。
 噴水の前まで来ると、茜はサンダルを脱いで水溜りに足を入れた。足首の少し上までしか濡れない、本当に小さな浅い水溜りだ。今はそれ以上に雨で濡れるほうが大きい。
「雨宿り――」
「ずっとこうしたかったんです。でも、人がいると恥ずかしいですから」
 スカートの裾を持ち上げて、茜が照れたように微笑んだ。その間も、雫は留まるところを知らずに茜の体を流れ落ち、サマードレスに染み込んでいく。
「そうか」
 浩平は頷いた。靴を脱ぎ、脱いだ靴下を丸めて靴に入れる。ジーンズの裾を折って上げると、茜の隣に入った。ずっと太陽に照らされていたためだろう、噴水の水は温かかった。
 噴水で遊ぶことといったら、水を使った遊びに相場が決まっている。身体をかがめて水を掬ってはお互いに掛けあい、手のひらで水鉄砲を作って飛距離で競ったり、ひっきりなしに目に入ってくる雨の雫を手の甲でぬぐいながら、誰もいない世界で2人は遊び続けた。
 浩平も茜も、噴水に尻餅をついたのは一度や二度では済まなかったが、これだけ雨に打たれていれば、尻餅をつこうがつくまいが大した違いはなかった。
 水しぶきを飛ばしながらはしゃぐ茜の姿など、「こちらの世界」に戻ってくるまで想像もしなかった。表情があまり変わらないのは相変わらずだが、浩平には茜のはしゃぎぶりがよくわかった。雨にさえぎられてじっくり見ることができないことだけが、残念だった。
 そうしているうちに、雨足が弱まってきた。降り出したときと同じように、濡れた風景と2人を残して、雨はあっさりと姿を消した。雲の隙間からは、すでに日光が見え始めている。
「風邪、引くんじゃないか」
 濡れた髪をかき上げて浩平が呟いた。
 茜が浩平を見上げる。
 雨が降るたびに、傘を持たずに消えた幼馴染を、そして浩平を待ち続けてあの空き地にたたずんでいた茜。ただ傘をさして、来るはずのない人を待ち続けて。
 傘がないと風邪を引くから。
 そんなことを言っていた茜が、浩平の目を見つめてきっぱりと言い切った。
「風邪は、引きません」
 そして、顔いっぱいに心からの笑みを浮かべて続ける。
「だって、今は夏なんですから」
 夏だって風邪は引くだろ。そんなつまらない常識は、意識にすら上らなかった。浩平は茜の顔を見つめたまま、人差し指で額を軽く突いた。
「馬鹿だからだろ。オレも茜も」
 浩平も微笑む。伝い落ちる雫が、また頬を濡らす。
「そうかもしれませんね」
 額に手を当てて茜も笑う。
 改めて上から下まで見てみると、茜はものの見事に全身濡れ鼠になっている。髪の毛の膨らみはつぶれて、べったりと肌に張りついている。もちろん、それは浩平も同じことだった。大泣きした後のような顔は、すがすがしく浩平を見上げている。だが、その下は……。
「なあ、茜。今日の下着の色は白だよな」
 無言で俯いて次に顔を上げたとき、茜の顔は真っ赤に染まっていた。
 サマードレスは肌に吸いつき、キャミソールはおろか下着のデザインまで丸見えになっている。当然といえば当然の結果だ。
 だが、茜は小さく口を開いたまま何も言わない。「恥ずかしいです」とか「嫌です」などと言えるところを、すでに超えてしまっているのだろう。
 浩平は一歩茜に近づくと、背中と腰に腕を回して茜を抱き上げた。
「あのっ」
「これなら見えないだろ」
 本当はもっとじっくり見ていたかったが、それはさすがに酷だろう。
「風邪を引いてなくても、茜が倒れそうなときは、いつでも支えてやる」
 安心したように、茜の両腕が浩平の首に巻きついてきた。
 浩平はそのまま回転を始めた。転ばないように慎重にゆっくりと、ワルツを踊るように、中央の噴水の周りを移動する。
 雨に打たれて冷えた茜の身体が、それでも温かい。
 湿った雨の匂いの隙間から伝わる茜の匂いが、温かい。
「……もう、どこにも行かないで」
 吐息とともに、耳元で囁かれる茜の言葉。
 それは、あの日聞いた言葉と似た言葉。
『……どこにも行かないですよね』
 あの言葉は確認。だが、この言葉は強い願い。
 あのとき浩平は頷くことができなかった。茜を、大好きな人を安心させてあげることができなかった。雨の降りしきる、凍えそうな冬の日のことだった。
 だが、今は違う。
 浩平が口を開いた。
「もう、どこにも行かない。ずっと、茜と一緒にいる」
 そして、浩平は大きく頷いた。
 浩平の首に、強い力が加わる。茜の身体の重みが、いっそう近くに感じられる。
 今なら確信をもってそう言える。言うことができる。
 なぜなら……そう。
 夏はまだ、これからなのだから――。


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